2013年6月5日水曜日

篠田桃紅の墨象

6歳から20代の半ばまで書道をやっていたんです、というとなぜかとてもびっくりされるのですが、本当です。

すると、ああ、お習字ね、と言われることが多いのですが、つい、書道です、と言い返してしまいます。確かに子供の頃はお習字だったのですが、高校から大学生くらいになると、本格的に中国の石碑の臨書など古典をみっちりやらされました。

1回の展覧会に出品するために、自分の身長よりも大きな紙に練習することおよそ300枚。賞を取るためにはこれでも少ないくらいです。(ちなみに紙代は1枚あたりタバコ1箱分くらいでした。)

…と、青春を白と黒のモノトーンの世界で過ごした私でしたが、筆を持たなくなってからというものすっかり墨の世界が縁遠くなってしまいました。

そんな折に、NHKの日曜美術館のアートシーンのコーナーで『篠田桃紅の墨象』展を見つけたのです。百歳を迎える記念の展覧会ということで、ご本人がインタビューを受けていらっしゃいましたが、それはもう「矍鑠(かくしゃく)」という言葉は篠田桃江さんのためにあるようなもの、と思わせるほどの受け答えぶりに驚かされました。

篠田氏といえば、高校生の頃に「墨いろ」というエッセイを読んだことがあります。しかし、何せその頃の私は古典臨書がすべて、前衛書なんて邪道だ、という青臭い考えにがんじがらめだったので、作品そのものには大して魅力を感じず、ただ内扉の著者の写真がたいへん美しく、美貌の女流芸術家かあ、カッコいいなあ、と邪な憧れを抱いている程度でした。



 ニューヨークで活動を始めた頃の篠田氏


モノトーンの世界と訣別した私は、そこに反撥するかのように鮮やかな色彩の世界を求めて西洋絵画ばかりにのめり込んでいましたが、思えばどちらも子供の頃から私の中に共存していた世界です。それに、ちょっぴり気分も滅入っていたので、激しく訴えかけてくる極彩色の世界はちょっとつらいな、という時に絶好のタイミングでした。

かなり前置きが長くなりました。西洋絵画のブログにこれを載せるにはそれなりの理由が必要なわけでご容赦を。

さて、会場の菊池寛実記念 智美術館はホテルオークラの裏にあり、大都会でありながら閑静な空間の中にあるこじんまりとした美術館です。中に入ってみると、まさに今、私が求めていた世界がありました。

篠田桃江『ある女主人の肖像』


美術館を設立した女性の凛とした姿を「女」という文字で表した作品。



篠田桃江『Silver Solitude/閑』(2001年)





最初の作品に向き合った瞬間に、鳥肌が立ち、閉塞していた何かが流れていき、やっと自由に呼吸ができる、という感覚に包まれました。

篠田氏は、1950年代半ばのニューヨークで注目された芸術家です。幼い頃から親しんだ書をベースに、水墨抽象画という新たなジャンルを生み出しました。彼女の作品は、メトロポリタン美術館を始めとしたアメリカの主要な美術館はもちろん、大英博物館やヨーロッパの数々の名だたる美術館にも収蔵されています。

その作品は白と黒だけの世界ではなく、絶妙なバランスで金、銀、朱、などが取り入れられているのが特徴です。写真ではわかりにくいのですが、上の作品の背景をよくみると四角い升目で構成されています。これは銀箔を貼り合わせたもので、濃淡のある独特の光沢感が、作品の印象の大部分を決めています。


篠田桃江『Poetry in Motion /線』(1956年)
(ノーマン H.トールマン蔵)





そして何と言っても、彼女の作品から感じられるのは、完璧に計算されたリズム。余白の使い方、形の置き方がすべて計算されたかのように、収まっているのです。

しかし、篠田氏は言います。「形を意識して書くこともあれば、手が勝手に動くこともある」と。この作品はかつて、ジョン D. ロックフェラーⅢ世の妻が所有していたもので、三好達治の「花のたね」という詩がベースになっています。

たまのうてなをきづくとも
けふのうれひをなにとせん
はかなけれどもくれないの
はなをたのみてまくたねや


篠田桃江『In Days to Come/ゆくへ』(2008年)
(カマル、スニール・バクシー蔵)


こちらもまた、起点と終点が何の迷いもなく計算されたかのような作品。



篠田桃江『Water/水』(2012年)
(ジェニー、アイヴォア・オーチャード蔵)





篠田桃江『Fire/炎』(2012年)
(ジェニー、アイヴォア・オーチャード蔵)





「水」と「炎」という対を為す作品。素材はいずれも和紙をベースにしているものの、それぞれ微妙に異なり、「水」は銀泥に金箔、「炎」は朱にプラチナ箔。ポイントは、あえて金箔を「炎」でなく「水」に使い、プラチナ箔を「水」ではなく「炎」に使っているということ。

ここにこの作家のセンスというか、品の良さが表れている気がします。もし「炎」に「金箔」を使っていたら何の面白みもないし、それこそ豊臣秀吉風の成金趣味になってしまいますからね。


篠田桃江『Discovery/ひらく』(1962年)
(ノーマン H.トールマン蔵)


抽象画は言葉を越える、という強い意志が感じられる作品。


今回の展覧会では、1950年代の半ばから最近の作品まで展示されていますが、半世紀も前のものとは思えないほどに斬新で、新しいのです。

驚いた、というか、やっぱり、というか、ギャラリーは半分以上が外国人でした。品の良いカップルが作品の前で静かに語り合う光景がなんとも美しく、作品と鑑賞者が織りなすその雰囲気にとても癒されました。

どうも体調がすっきりしない日々が続いていましたが、ついに40度の熱を出し、点滴で通院の毎日のため更新がすっかり遅くなってしまい、この展覧会はご紹介する間もなく終了してしまいました。

しかし、日本でも岐阜に篠田氏の美術館がありますし、東京でも国立近代美術館や原美術館を始め様々な美術館、企業に加え、皇居、迎賓館、増上寺なども所蔵していますので、公開のタイミングが合えば見られるものもあると思います。



最後に、篠田氏の序文から…

Vermillion

I still believe that the red of the setting sun and deep crimson of flowers 
can be expressed through the medium of sumi ink. 
However, the method by which that is done is a profound one,
and one that cannot be arrived at during the course of single lifetime such as my own,
 a fact that I have come to realize to a small degree after reaching a ripe old age.

(中略)

Sumi and Vermillion are the means that I have selected in the pursuit of my desire to express things that cannot be expressed through realistic depiction.




私は「墨」は夕暮れの赤も深紅の花々の赤も表現できる、と今も信じています。
しかしその方法は奥深く、私などの一生ではとうてい辿り着けないものだということが、
齢を重ねて少しわかってきました。

(中略)

「墨」と「朱」は、私が写実では表現できないものを表現したいという
探求の中で選んだ手段なのです。

(参考訳文:angeaile)






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